ダンガンロンパV3 感想(というか整理) 世界観整理とフィクションへの没入の条件ついて
Switch版発売に伴いエンディングを2回見れたのでようやっと整理できそうな気がした。
全てがネタバレなのでやってない方は1からプレイしてください。一刻も早く!!
世界観の整理あたりから頑張るんですが、こちら<【感想】「ニューダンガンロンパV3」という劇薬/結末に怒り狂うプレイヤーの心理(ネタバレ配慮あり) - 夜中に前へ>の方がとっても分かりやすいのでもうそっちを見ていただけたら…。
でも自分が感じたこととは違ったので自分の感想として整理をしたく。
《世界観認識の変遷》
黄色部分がフィクション世界、Playerがいる白背景は現実世界という感じで図解してみた!
<Chapter4まで>
V3は1,2から独立した世界観との触れ込みだったので別世界として受け入れつつ、関連を疑っている。過去未来なのか別世界線なのか…
<Chapter5>
やっぱりつながってたんかーい^^てなる。シリーズファンとしてはわくわく。
<Chapter6>
「才囚学園」がリアルフィクションであることが明らかになる。更に、1,2はその中のフィクション…。
フィクションの線を灰色線で表すとすると、V3世界の中に更に灰色線がひかれてその先に1,2世界がある。才囚学園はリアルフィクションなのでV3世界の中に点線として引いてみた。
やっぱりChapter4-5までと比べると各世界=自分たちが感情移入してきた世界、に距離や隔たりが出来たなーって感じがします。
ということでChapter4~6にかけて壮大な世界観どんでん返しを連続させる構成ですね。更に、お馴染みの、人によっては数年単位で執着したキャラクター達の姿と声で色々言ってくるという。これがプレイヤーの混乱を生み、感情をかき乱すわけです。
《プレイヤーへの説教の件》
散々言われてるけど…。私はしっかり不快感を覚えた人種です。不快感覚えつつ、M心で興奮できた的な感じで。(他にもあるけど、その辺はこちら<感想『ニューダンガンロンパV3 みんなのコロシアイ新学期』 至上のダンガンロンパはキワモノのまま自壊する - ジゴワットレポート>とだいたい一緒)
しかし、世界観を整理してみると何でこんなに不快に思っちゃうんだろう?ってなった。
だって、V3における視聴者(Audience)とプレイヤーの立ち位置は全く異なるんですよね。我々は流石にリアルフィクションのコロシアイを本気で楽しむような倫理観ではないし。
さて、メタフィクション事例を調べてみると「第四の壁の破壊」というワードに引っかかる。初めて知ったけどカッコいい用語すね。舞台と観客の間には壁(第四の壁)があり、舞台上のキャラクターは観客を認識していない、という共通認識がある。その第四の壁を破壊し観客に直接話しかけるような事例。
V3の演出は、第四の壁破壊事例に見せかけて、実はそうではないんですよね。学級裁判内では一度も「V3を遊んでいるプレイヤー」に向けた意見はなかったはず。
第四の壁の破壊っていうのはこういう感じのイメージ。黄色の矢印の始点はどこからでも良いと思うけど。
実際には下図の通り第四の壁は決して超えない範囲でしか説教的なアレはなかったはず。キャラクターにプレイヤーは認識されていませんからね。しかしながら、おそらくプレイヤーのほとんどが「コロシアイを楽しむ最低な奴らだ」的な説教として受け取った。
ここはChapter4から展開された世界観の翻弄が影響していると考える。V3の視聴者の立ち位置は、ダンロンシリーズを楽しんでいたプレイヤーの立ち位置と類似しているんですよね。
そもそも突然提示されたV3の世界観を受け入れきれてもいない。混乱中です。それ故に、多くのプレイヤーが自身をV3世界の視聴者と同一視してしまう。
エンディングまで見ると、フィクションを貶めていることはなく、むしろかなり肯定的に捉えている。冷静に世界観を整理して捉え直すと説教もそんなに自分に向かわせなくても良かったんだなーって思う。まあ制作陣は明らかに「敢えて」プレイヤーに不快感を与えているのでそう感じるのは当たり前だけど。
しかし、こうして整理すると、才囚学園をあくまでリアルフィクションにした、というところに絶妙なバランス感覚がある気がするんですよね。才囚学園の物語はV3世界では完全なフィクションではない。1,2と違ってな。また、現実世界のプレイヤーに向けた言葉は実は物語中にはない。(モノクマ劇場とかは第四の壁破壊してるかな…だけど、モノクマ劇場とかは「お約束」として受け入れられる。その捉え方の違いもまた興味深い。)
V3内で真に現実世界に踏み込んでくる訳ではないので、V3世界に対する没入感はさほど薄れず、エンディングで最原くんが言ってたことなんかも素直に受け止めることができる(違う人もいると思うけど)。
《わたしの世界観解釈》
長々語りつつ、正直Chapter6のこの図このままでは受け入れられないんだよな。
我々がのめり込んだ1,2が劇中劇であっていいはずがない…っていうところで。
ということでこういう解釈です。
V3は1,2がフィクションとして存在する世界観、V3とは別の世界観として1,2も独立して存在しているっていう構図ですね。
我々がプレイした1,2は独立した1,2世界のものでありV3内フィクションの1,2とは似て非なるモノなんだ!!
これでなんとか1,2を劇中劇にしなくて済みました。ほっ。
他にどんな解釈をした方がいるんでしょう?V3は何が嘘で何が本当か分からなくしてのるので、色々解釈できるんだろなあ。
その辺は解釈の自由ということで自分の好きなように捉えればいいのかなと思ってます。
さて。
こっからは自分のお気持ち考察。大半の方は理解しきっていることしかないので無視してくだちい。私はそういうのを意味なくこねくり回すのが趣味なので…。
《何故劇中劇には没入できないのか?》
前述の1,2の世界観は、自分を納得させるためにそうとしか考えるしかなかったという感じですね。1.2を劇中劇にさせられると、1,2での没入感が一気に冷めるっていう。
しかし、劇中劇にされると冷めるのは何故?って思った。
フィクションであることは百も承知で没入していたはずなのに、フィクションの中のフィクションにさせられるとどうしようもなく没入できない。
調べると、メタフィクションには「距離感」のバグによって読者を翻弄させるような働きがあるとか。ふむふむ。
そのとおりですね。上図からも分かるように、1,2がフィクションの壁を2つ隔てることになり、一気に距離が離れますね。さらに言えば才囚学園もV3内のリアルフィクションと視聴者の存在の暴露によって距離ができる。これによって混乱と没入感の喪失が起きる。
劇中劇に没入できないのは距離があるから。ここまではOK。
じゃあ距離があると没入できないのは何故??距離って何??っていうのがずっと理解できんかった。
で、ググってググって「物語世界への没入体験― 読解過程における位置づけとその機能 ―*1」という論文に辿り着きました。その中で紹介されている「物語理解・関与モデル*2」というのを通じて考えてみた。図も一部抜粋して記載させていただく。抜粋した以外のところもとても面白かったので是非。
「現実性の破綻が検出されない場合,読者は物語世界をそのまま受容してその中に没入し (上の矢印)」
「重大な現実性の破綻が認識された場合 (下の矢印),現実性の詳細な再評価が行われ,それによって破綻が解決されるまで没入は阻害される」
とのことである。(孫引きですみません…)
つまり、物語世界への没入には現実性の破綻がないことが必要、ということである(絶対これこのモデルの本質の理論じゃないと思うけど)。
ほほー。せやな…。せやろな。。
とはいえ!!私はフィクションはフィクションとして捉えてるし!!!と考えていたので、没入には現実性が必要、と言われてもイマイチしっくりこなかったんですよね。この期に及んで納得しようとしないわたし。
けど、今回、劇中劇には没入出来ないなーって思ったことから考えると、どうやらそう考えざるを得ないようだ。
以下、思考の過程。
当たり前のことにこんなに回り道しないと辿り着けない人もいるという例です。
『劇中劇には「距離があるから」没入できない』(結論①)
⇒距離=現実性と仮定すると、「距離が遠くなる=現実性の喪失」
⇒上記の結論①を言い換えると、『劇中劇は「現実感が喪失するから」没入できない』
⇒うーん……しっくりくる気がする…。
⇒更に言い換えると『没入感の喪失は、現実性の喪失からくる』
⇒『没入感の喪失は、現実性の喪失からくる』というならば、『現実性があるとき、没入感が生まれる』と解釈せざるをえない。(対偶的な??感じで。。)
つまり、私は現実性を認識しているからこそ、物語に没入しているのである。当たり前体操~。
「私はフィクションと現実分けられてるしぃ~」という慢心(?)により本質に気付くのが遅れました。物語に現実性=リアリティは大事というのはいっぱい見るのに。岸辺露伴も言ってるのに。「フィクションへの没入に現実性が必要」、、って…今更。オタクしてウン十年になるのに。恥ずかしい…。
けど!!!!!そうだとして!!!!!!じゃあ現実性ってなに??って思った。
我々をフィクションに没入させている、「フィクションにおける現実性」とは何ぞや?魔法が存在してようが超能力があろうがカードゲームが生死に関わろうが余裕で没入できるけど、その場合も私は現実性を認識しているってこと?何に?どうやって現実性を認識しているというのか???
話はV3から逸れるので別記事にするよ。
ちゅーか劇中劇とか…類似でいうと夢オチとかも、これまで触れたことあるのに今までちゃんと考えてなかったんだよなー。本気で没入した作品(ダンロン1,2)を劇中劇にされたことでやっと考えるようになった。
まあこういう「新しい感覚」で殴ってくれるのがまさに『ダンガンロンパ』なんだよな。好きだ…。でもV3でやったことを踏まえると続編はつくらんとってほしい…。
*1:物語世界への没入体験― 読解過程における位置づけとその機能 ―:https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/56/4/56_457/_pdf
*2:Busselle, R., & Bilandzic, H. (2008).Fictionality and perceived realism in experiencing stories : A model of narrative comprehension and engagement. Communication Theory, 18, 255-280