フィクション作品への没入体験とリアリティ判断に関する考察 「ア・プリオリな総合判断」の自己流解釈を添えて
フレンチ風タイトルで。
前回の記事の続きですが、もはやダンガンロンパV3は関係なくなってきています。
オタク歴ウン十年目にして初めて、「劇中劇には没入できない」ことに気付き、更にそこから「フィクションへの没入には現実性(リアリティ)が必要である」という当たり前体操に気づいたワイちゃんでした。
では、ここでいう「現実性」とはなにか?ということを考えてみました。フィクションは現実と区別して楽しんでいるはずなのに、現実性の認識とはいかに?
現実に魔法がないことは知ってるけど、カードゲームで人が死ぬわけないが、それはそれとして没入できるのは何故なのか。
私の考えでは、「我々は、フィクション版ア・プリオリな総合判断に基づいてフィクション作品の現実性を検証している」という結論に至りました!!
~~~終~~~
なんだけど、絶対後から見返したときにハ??コ○スってなるので自分の頭を整理します。ざっくり言うと「世界観における因果律や法則の妥当性を検証し、現実性を判断している」みたいな感じかな。当たり前すね。
しかし、当たり前なんだけど、「ア・プリオリな総合判断」ていうのは、「我々が当たり前に行っている『妥当性の検証』とはどのようなメカニズムなのか」を分解して説明してくれるような概念です。
ア・プリオリって言うとカッコいいし…ややこしいニュアンスを一言で表すことができるし……。こうしてカタカナ語が広まっていっているんですな。
《ア・プリオリな総合判断って何やねん?自己流解釈》
添えます。(タイトル回収)
ア・プリオリな総合判断について。カント「純粋理性批判」で提唱された用語です。ア・プリオリのwikiより。
アプリオリ(羅: a priori)とは、「より先のものから」を意味するラテン語表現。中世スコラ学においては「原因・原理から始める演繹的な(推論・議論・認識方法)」という意味で用いられていたが、カント以降は「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な(人間の認識条件・認識構造)」という意味で用いられるようになった
ハ????ってなるんで、100分de名著で取り上げられた範囲&私が理解できた範囲&書ける量の範囲で噛み砕いてみる。正直原著読んで理解できる気が…しない…。(ゴメンナサイ)いつかは読まなきゃね…。
めちゃくちゃ端折ってるので「純粋理性批判」での論の本質は別にあるということだけ誤解なきよう。
詳しくは100分de名著からどうぞ。(紙テキストまたはNHKオンデマンドで)もしくはWebページ*2でもさわりは読めます。
さて。
『何故自然科学や数学は誰もが共有できる知識なのか?』という問いに明確に答えられる方はいるでしょうか。
言語や文化、宗教が違っても、自然科学や数学だけは万人共通の理解ができるのは何故なのか。
地球の自転など実際に見たことはないけど、しかしそれを「確かな知識」として受け入れられているのは何故なのか。
ア・プリオリな総合判断は、そのメカニズムを明らかにするために生み出された概念です。
我々万人が「ア・プリオリ=先天的」に持っている共通の認識・思考のパターンを分析し、知識を共有できるメカニズムを明確にしたのです。
早速共通の認識・思考パターンの例を見てみよう。
まず、認識の方法。
我々はモノを考えるとき、必ず「空間・時間」という枠組みで捉えている。
バラの花と少女を想像してみてください。と言われたとして。
そこには必ず花と少女の位置関係がある。少女は花を持っているのかもしれないし隣に立っているかもしれない。
少女も花も我々が創造した「空間」の中に存在している。
また、この時、少女と花は同時に存在すると想像した人がほとんどであろう。同時=同じ「時間」なので、少女も花もやはり我々が想像した「時間」の中に存在している。
このように我々はあらゆる物事、事象を「空間・時間」の枠組みで捉えている。むしろ、「空間・時間」の概念なしには物事を考えることが出来ない、と表現したほうがわかりやすいかも。
我々は、このような認識方法をア・プリオリ(先天的)に所有しているのである。
次に思考パターンの例。他にもいっぱいあるけど説明しやすいやつ2つほど。
一つは「量」の考え方。単位という概念を理解できる力、と私は解釈した。ある塊を「1」として考える力。60秒は1分に。1000mを1kmに。そもそも1秒はこういう時間で1mはこの長さで…などなど。
何を「1」とするかは人間が勝手に決めている。「1」を決める単位という概念を、我々は共通して、ア・プリオリ(先天的)に理解することができる。
次に「関係」の考え方。最も分かりやすいのはやはり「原因と結果」である。
例えば通り道で火事が起きてたら、何を考えるだろうか?閉じ込められてる人はいないかな…火は消えるかな…エトセトラ。だけど、理由を全く考えない人はいないのではないか。放火なのか不始末なのか事故なのか、、と多少なりとも理由を考えるのではなかろうか。
つまり、「火が起こるには原因がある」と誰もが認識しているのである。このような、因果関係を考える力を我々は共通して、ア・プリオリ(先天的)に習得している。
ふ~~。
認識のパターンとして「空間・時間」、思考のパターンとして「量」「関係(原因と結果)」をご紹介しました。
「ア・プリオリな総合判断」とは、このような「認識・思考のパターンの組み合わせ」です。これによって、自然科学、つまり実験や観察、計算により明らかになる法則を共通の知識として理解することが出来るのです。
実際に地球の自転を目撃したことがなくても、観察や計算の結果から導き出されたその「確からしさ」を理解することが出来るのです。
ア・プリオリな総合判断に基づいて自然科学=現実世界での現象を理解している
ということは!!
フィクション作品に触れるときにも作用してるんじゃないかな?って考えて今回の記事の本題になるのでした。前置きが長過ぎる…。
《フィクション版ア・プリオリな総合判断》
フィクション作品の現実性の判断は、フィクション版ア・プリオリな総合判断に基づいて行われている
という持論について検証する。
■現実と一緒の思考で捉えてること
前述の通りア・プリオリな総合判断は我々が持っている思考パターンなので、フィクション作品に対しても同様の思考で捉えているはずである。
「時間・空間」・・・フィクションであっても時間と空間の概念がない世界は想像しにくい。意識世界とかで一部超越した空間が描かれることがあるかもだけど、それも含めてやはり必ず時間・空間の枠組みで物事を考えるはず。
「量」・・・単位の概念もやはりそれなしでは世界を構築できないのではなかろうか。時間、距離、大きさ…あらゆるものを単位なしで考えることは難しい。
「原因・結果」・・・何かの変化には理由があるという考えはフィクションでも共通である。
上記のような観点から、我々はフィクション作品においても、ア・プリオリな総合判断に基づいて世界観における因果律や法則の妥当性を検証し、現実性を判断していると考えられる。
そして明らかに因果律の関係がおかしかったり法則が成立してなかったりすると、世界観の構築甘いな~などといって冷めちゃう=没入感が薄れる ということになる。
例えば、「原因と結果」に基づく判断でいうと、どんな世界観であろうと「火が起こるには理由がある」という考えは変わらないのですよね。フィクション世界であれば、それが魔法だの呪いだのするかもしれないけど、何の説明もされなかったら何でやねんってなっちゃうかと思います。
■現実と異なる思考で捉えてること
「フィクション版ア・プリオリな総合判断」と付けた理由は、やはり現実世界でのものの考え方とは異なる点があると考えたからである。例えば下記2点。
1) 現実世界での判断と必ずしも一致しない。
2) 個人の知識、経験などバックグラウンドによって判断基準は異なる。
上記2点についてそれぞれ見ていこう。
1) 現実世界での判断と必ずしも一致しない
フィクション作品に触れるとき、現実にはありえないけど「フィクションだからね」で現実の法則を無視して済ますことが多々ある。
これについては、フィクションにおける「現実性=リアリティ」の判断には影響せず、没入感を損ねることはない。
こちら後述の通り人によるものではあるけど、おおよその人に受け入れられてるのではないかなっていう例を示す。
例
・魔法が存在する世界(エネルギー保存則って…?)
⇒そういう世界なんだからいいんじゃい!OK!
・地球上で二足歩行できる巨大ロボット(物理的には難しい)
⇒本来宇宙での戦闘を想定しているし云々…否、ロマンが上回るんじゃい!
・カードゲームで人格崩壊したり謎のエネルギーが生まれたり異世界の扉が開いたりする(…)
⇒カードゲームアニメなんでOK!(ネタにはする)
ちなみにこういう「そういうもんなんじゃい」で半ば無理やり受け入れたことに対して、物語内でキチンと理由を付けられると興奮しちゃいますね。このへんも「現実性」がより増し、さらなる没入体験に繋がる、ということかな。
2) 個人の知識、経験などバックグラウンドによって判断基準は異なる。
これは例から挙げたほうが良いかも。しかし個人で異なるならア・プリオリとは言えないのでは…。ううむ。
例
・医療ドラマで医療機器の使用方法が間違ってて気になる
⇒お仕事等で知識がある人には気になるし、全く知らん人は気にならん
・方言の発音が微妙に違くて気になる
⇒現地の人は気になるし、全く知らん人は気にならん
「気になる」とはその人にとっての現実性の破綻であり、つまり没入感の喪失につながる。で、それによって話が入って来ない!!って人もいれば、一瞬気になったけどまあ置いとこか、で物語に戻れる人もいる。
まさに下図の矢印(下)の事例の通り、現実性の破綻は、破綻が自己の中で解決されるまで没入を妨げることになる。
まあそんなこんなで「我々は、フィクション版ア・プリオリな総合判断に基づいてフィクション作品の現実性を検証している」と考えてみました。
ホント当たり前のことを捏ねくり回しただけで特に何という結論ではないんですけど…。でもこういう分解をしてみると、自分や他人の捉え方の違いとかを理解する一助になるかなあなど。
まあしかし、今後の課題にしたいことが出てきたのでめもめも。
《今後の課題》
■フィクションを楽しむ力もア・プリオリですか??
記事内で、フィクションだからね!で済ませられる例を紹介してみた。これも個人によって異なるけど、しかし、かなりの部分で共通しているところがある気もするんだよな。
これはア・プリオリ(先天的)なのかアポステリオリ(後天的)なのか…。育ってきた時代や環境の影響が大きい気がするので後天的かなあ。
ほんでもって。
フィクションだからね!で済ませられる範囲は人によって異なるとしても、フィクションだからね!で済ませられる部分がある、という点は万人共通の感覚だと思う。
我々はア・プリオリにフィクションを楽しむ機構が備わっているんだろうか。ネコチャンにはフィクションをフィクションとして楽しむことは出来ないので人間特有ですよね。
この辺のフィクションをフィクションとして考えることができる機構がどーなってるのか調べたり考えたりしてみたいね~。
■フィクションでの現実性を認識して…ほんで??
現実性=リアリティがある⇒フィクションへの没入体験に繋がる っていうとこから、今回は「現実性の判断ってどう行ってるねん」を検証してみました。
が、そこからフィクションへの没入については…またさらに複雑な機構があるんだろうな~。参考文献の論文にも書いてますが、まだそれも読み込めてはいないので、また調べたり整理したりしたいね~。
■劇中劇に没入できない理由を再度検証できないか??
前の記事で、フィクションへの没入には現実性が必要である、という結論に至った。
この結論はあくまで現実からの距離=現実性と仮定して導いたものである。
『劇中劇には「距離があるから」没入できない』(結論①)
⇒距離=現実性と仮定すると、「距離が遠くなる=現実性の喪失」
⇒上記の結論①を言い換えると、『劇中劇は「現実感が喪失するから」没入できない』
⇒更に言い換えると『没入感の喪失は、現実性の喪失からくる』
「フィクション版ア・プリオリな総合判断によりフィクション作品の現実性を検証している」という結論から、劇中劇に没入できない理由について再度検証できないかなあ、と思いつつ、もう思考の限界なので。
またいつか考えてみたい。
ていうか劇中劇に何故没入できないのか?から始まってここまで考えたのに、結局また最初に戻るっていう(笑)まだ自分の中で消化できてなくて…。うう。結局解決せず。
*1:物語世界への没入体験― 読解過程における位置づけとその機能 ―:https://www.jstage.jst.go.jp/article/sjpr/56/4/56_457/_pdf
の中の Busselle, R., & Bilandzic, H. (2008).Fictionality and perceived realism in experiencing stories : A model of narrative comprehension and engagement. Communication Theory, 18, 255-280
*2: